昭和43年4月30日朝のご理解
Xご理解第53節 「信心すれば目にみえるおかげより、目にみえぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えてあれもおかげであった、これもおかげであったとゆう事がわかるようになる。そうなれば本当の信心じゃ。」
信心すれば目にみえる御陰より、目に見えぬ御陰が多いぞ。はっきりと「信心をすれば」とおっしゃっています。信心をさして頂いていてきよれば目にみえる御かげより、目にみえぬ御かげの方が多い。知った御かげより、知らぬ御かげの方が多いぞ。あとで考えてみて、あれも御かげであった、これも御陰であったとわかるようになると本当の信心じゃあ。たしかに目にみえぬ御かげ、知らぬ御かげ、これはもうどのくらいあるやらわかりません。
してみると四神様の御教えの中にですね「氏子が例えば三つのおかげをいただいたと思うときには五つ御かげを頂いたように喜べば五つのおかげじゃ」とおっしゃっる。「十おかげを頂いた時には二十も頂いたように喜べば二十のおかげじゃ」とおっしゃる。
してみるとね、私共が十のおかげを頂いたと思うとってもね、より少し言うならオーバーにです、ね、二十も頂いた様にゆうとっても実はまだ足りんということです。目にみえるおかげより、知らぬ目にみえぬおかげの方が多い、知ったおかげより、知らぬおかげの方が多い。信心をしておれば、これは私が日々合楽に関係を持っておる御神縁を頂いておる信者、もう隅々まで一人一人の事がお願いをしてあるのですから、本人が参っておらんとか、参っておるとか関係ない。ことに、御神縁を頂いておるかぎり、隅々の信者にいたるまでです。そうゆう御かげを頂いておるけれども、御参りをしていないとです、信心が薄うなって参りますとです、そこん所が目にみえる御かげがわからない。知らぬ御かげが多いとおっしゃる、その知らぬ御かげの方が多くなってくる。そこにです、神様にたいしての御礼不足とゆうことになってくるのです。ねえ、もう身体が不健康致しますとねえ、本当にもう日頃の御礼不足とゆう事がわかります。
日頃、健康の御かげ頂いとっては当たりまえのように思うとる。御礼不足であるとゆうことがわかります、とゆうようにゆう事もそうなんですねえ。そうゆう事になってみて自分の御礼不足とゆう事がわかる。だから本当に御礼不足とゆう事がわかるならねえ、もっと、どうかした御礼が出来らにゃあならん。御礼の信心が出来らにゃあならんのだけれども、でけんとこみると、口ばっかりのような場合もあろうかと思う。
今日はその53節の前に、52節に「信心する者は驚いてはならぬ、これから後、どのような大きな事が起きても少しも驚くことはならぬ」と言仰っています。これはね、五十三節の前に言っておられる五十二節です。所謂、あれも御陰であったこれも御陰であったと解るようになるとです。ねえ、目の前が真っ黒になるような問題が、もし起きてもです、これを御陰といただけるわけです。ですから驚かんで済むのです。少しも、驚くことはならんぞとこう言仰る。処がお互いが慌てふためき、驚いているという事実がですね、いかに自分が本当の信者でないかと言うことを気付かにゃいかん。 今度はまた53節の次ぎの54節になりますですたい。ねえ、53節を中心にして私は、今日は皆さんに聞いておるんですけれども、その54節のネエ「徳の無い間は、心配する。神徳を受ければ心配は無い」。・・・・もう、一寸とした事が不安で不安でたまらない。これはねえ、限りの無いことではありますよ。次ぎに段々信心を進めてまいりましてですね、もう、普通の人間は一つも心配しない,そういう事が心配になってくるんです。ねエ。これは高度の心配です。
そりゃ、天地の親神ですら心配しておられるのですからねエ。あの氏子は、どうなるじゃろうかというて心配しておられる。これは最高高度の心配なんです。
私共ぐらいに信心を解っておらん者でもです、段々少しずつ分からして頂きますようになりますとです、本当にこう言うような心配は、昔は全然心配のシの字もしなかった。
それが眠られんごと心配なことがある。心配になると、夜の夜中でも,ご神前に出てきてご祈念せずにはおられない。神様がああじゃこうじゃとヒントを与えてくださると、安心ができるという事がちょいちょいあります。とゆうて、私がその心配をですねエ、皆さ んに聞いてもろたら、「親先生,そげなこつ心配しなさんでもよかろうものね」というような心配です。ところが、私にとっては非常な心配。さあ、明日食べるものがない、お金が無い、そう言うような事は,更々心配は無い。みんなの心配するのは、そんな心配です。
ねエ、明日、幾ら幾ら払わにゃならんが、払われるだろうかというような心配、だから、 心配には、勿論程度がありますよ。けれども、普通一般の人が心配するようなことで、心 配するようなことであっては、信心を頂いているという値打ちが無いということです。言うならば、神様が、心配なさるようなそう言う心配ができるように、段々御陰を頂いていかにゃならん。
信心する者は、これから先、どのような大きな事が起ってきても驚いてはならん。驚かんで済む御陰を頂くためにです、そこの処を皆さんが、よく間違えるんです。御理解53節のところにですね。後で考えてあれも御陰であった、これも御陰であったと一緒に読むとですね、漠然としてくるんです。これはね、後で考えて、あれも御陰であったと、ここで一度、切らにゃいかん。「後で考えてみて、あれも御陰であった」という「あれ」というのはねエツ、過去全体、私のことでいえば55歳になるならば、55歳、55年間の過去一切があれも御陰であったと分かるんです。後で考えてみて、私が生まれて、例えば60日目には、本当にもう火の中にあった。60日目にはもう本当に死ぬか生きるかというような大火傷をさせて頂いた。その様なことがです、本当に、あれが御陰であったと分からしてもらう五十何年間のすべての事、あの時にあげな事がなかったなら、あん時にこげな事がなかったなら、顔に傷がなかったなら、もちょっと良か嫁娘もらわれとったかもしれんね。
だから、これでは信心にならんです。
うちの家内じゃないけれども、見合いじゃないけれども一番初め遭った時です。顔の傷が魅力じゃったげな。後で聞いたら、あれも御陰じゃったことがわかるでしょうが。もう確かにです、信心をしておれば、過去の一切が生きてくるのです。信心とは、一切のことが生かされることなんです。
「自分の一生の上にああゆうようなことがなかったなら、こういうような事がなかったら、今頃は、もうちっとましな」こういう心が有るとするなら、その人は信者じゃないのだ。本当の信心を目指しているのじゃないのだという事がいえます。
「後で考えてみて」というのは、「あれも御陰であった」という処にだけに使わにゃいかんです。「これも」とゆうのは、「御陰であった」ということじゃないのです。これというのは、これなのだ。現実なのだ。今の問題なのだ。今抱えておる難儀と思っておる難儀は、これは難儀じゃないのだ。昨日あたりのご理解から頂きますと、もう、これ一切が神愛ということだから、この辺が難しい。あれも御陰であったという事でですねエ、これも御陰と分かるということがです。やはり、しっかり信心しよらんとそこが分からん。「それが分かるようになれば、本当の信者じゃ」と、こうおっしゃっている。
そして、五十四節に「徳のない間は、心配する。神徳を受ければ、心配はない。」というのは、普通一般の人が心配するような心配は無くなるということです。そこで、信心させて頂きよって普通一般の人が腹を立てる様なことに、腹を立てておったり、普通一般の人が心配をするようなことに心配しておったら、ああ、自分は本当の信心を頂いていないんだなあ、参ることは、参りよる。拝むことは拝みよるけれども、本当の信心を頂いていないんだなあと、分からしてもろうて、本当の信心とは、どういうような信心か?と求めていかにゃいかんです。信心の無い者でも、腹かかんことに腹かいておったり、信心の無い者でも心配するようなことに心配しておることでは、御陰にならん。そこに、自分の信心の度合というかね、程度というものを、分からしてもろうて本気で,次の信心に飛躍していくことを願わなきゃならん。そして、所謂、本当の信者を、目指さなければならん。 昨夜でした、豊美が久留米に御茶会が御座いまして参りました。丁度、久留米の笠さんの車に便乗させてもろうた。丁度表では、日章旗を教旗と一緒に揚げておった。日章旗が揚がりよる。
この頃は、何処も揚がっとらん。言うなら、天長節、天皇陛下の誕生日だというのに、日章旗もどこも揚げん処が多くなった。そしたら、笠さん臼くです。「この頃は日本人が少のうなりましたもんのう」素晴らしい言葉だと思うんですね。時々、ユ-モラスな中々、素晴らしいことを言われるですもんね。あっちはこの頃は日本人が少のうなりましたもんのう、日章旗が揚がっとらんということなのです。本当に、日本人ならですね。例えば、国の長であるところの天皇陛下の御誕生日に真心の旗ぐらい揚げて御祝いを申し上げるぐらいの心があってこそ、本当の日本人だと言えると思うのです。
天皇も人間だ、そりゃもう勿論、人間どころじゃあないです。けれども、確かに、笠さん言はれるように、「この頃は、日本人が少のうなりましたもんのう」それを聞かせて頂きましてから、すぐ、皆さんも聞かれて思われるでしょう。「このごろは、金光様の信者が少のうなりましたもんのう」私は、それをすぐそう思うた。といって、ゆうなら、もう立教百年もなってからですから、少なくなるのじゃない、増えていきよることだけは、間違いないのだけれども、所謂、本当の金光様の御信者が、少のうなったという事なんです。「この頃、金光様の信者が少のうなりましたもんのう」ですから、私共は少ないほうの私共にならにゃいかんです。その少ないなかにでも入らしてもらっておる私にならにゃいかん。
先日、北野の堤さんが、或るよその教会の先生方と一緒に同乗された。あの先生は偉い先生だと聞いておったけれどもです、ところが途中でです。ねっ、・・車窓からどんどん唾ばあ、吐かしゃるげな、はあ・・この先生はたいした事はなかばいのう、と思うたとこういう訳なんです。とても金光様の御信心を頂いとってですね。しかも先生ゆうなら分かるし、また分かる方がです、とても、大地に 唾を吐き散らかすと言ったようなことでです。これは、本当の信者じゃない。先生の風上にもおけんような先生である、と堤さんが、思いなさったのは当り前だと思うのです。してみると、「この頃は、本当の先生が少のうなりましたもんの」でもよかと思うですね。
昨日もでした。ある若い先生方が2人みえました 。ですから、此処で一杯さしあげとりましたから、御神酒のかげんも入ってからの事もでしょうけれども、これから信者やら、弟子達をね,一丁叩き直さにゃならんとゆう言葉を使われるんです。その意気盛んなところは、私は大いにかいますですね。けれどもですね、自分が叩き直すとゆうような事ではですねえ、信者は絶対叩き直されないです。先ず、自分自身がまず叩き直されなければ。そしたら、神様から頂きますことがですね。「どろ」と言う字を頂くんです。そして、「口」の字を頂くんです。それから、私は感じたんです。言うならば「どろ」のような信心、「どろ」と言うのは、どういう事があっても、黙って、受け入れられる様な信心。
そういう信心ができてこそ、初めて、口に出してもよいのだ。よしというのは、言ってもいいという事だと私は思った。自分自身が出来ておらんといてから、いかに信者を、弟子を叩き直すなてもってのほか、一丁叩き直してみるがいい。どのくらい一丁言うこと聞くか聞かんか、絶対いうこと聞かん。そげなこつじゃ。
これはね、信者や弟子だけじゃあないですよ。お店なら、お店をしとるなら、店員なら店員お店の人というてもいいです。自分の子供と言ってもいいです。子供にいくら、うちの息子を叩き直してやろうと、叩き直してから、直るもんですか。親自身が、亭主自身が、本当にうちのお父さんに付いて行かなきゃ馬鹿らしか、うちのお父さんの言われるのが本当だと、言う様にならなければ駄目だ。自分自身が「土」の様な信心さして頂いて、「口」を出さなければねっ。息子だからいう事を聞くのが当り前、店員だから働くのが当り前、だから、「働きが悪い、言うことを聞かん」と、喧しゅう言うような親や、亭主やらであっては皆から尊敬されるはずがない。金光教の先生なんて、尚更、そうです。
先生自身が御陰頂いておかんで、信者が御陰頂くはずがない。これは大変な叩き直すなんて、これは以ての外だと私は思うのですね。だから、そういう事を言っている間は本当の事を言って、今日の御理解から言うと、本当の信者じゃないということが言えます。本当の先生じゃあないという事が言えます。
所謂、この頃は、日本人が少のうなりましたもんなア-とい う事と同じ事なんです。だから、合楽に御神縁を頂いておる皆さん一人一人がです、ひとつ、本当の信者を目指さなければならんねエ。金光様のご信心とは合楽の信者を見よと言われ、思われるような信心を、私は名々が身に着けておらなければならん。それには、「これから先、どのような事が起こって来ても驚かんで済むだけの信心、徳のない間は、心配をする身に神徳を受ければ、心配はない」と言仰る。普通の者が心配するような事には、心配せんで済むだけの御陰を頂かなければならん。
私は、本当に夕べご祈念の後に有り難いと思うたことがあるんですが、夕べ久しぶりで北野の久富先生ところの子供さん達が親子3人連れで、夜のご祈念にお参りしてきておる。ご祈念が終わってから、お茶でもあげながら、先生、今朝からお夢を頂きました。それが先生、お夢の中でですねえ、久保山先生から大変にお叱りを頂きよるお夢でした。久保山先生がどのような事を言いなはったととゆうたら、「うちの家内から聞きなさい。うちの家内ば見なさいとゆうてから怒んなさった。」本当に例えば道の兄弟としてですたい。久保山先生と久富先生が道の弟と思うなら、弟嫁にも当たるようなもん、信心の目でその弟嫁に御霊乍らにです、「しっかりした信心をしなさいよ、今のような事でどうするか」と言って怒られた。しかも、「うちの家内を見なさい。うちの家内が本当の信心をしとるとというわけじゃないのだけれども。」ねっ、例えば、本当の信心を目指しておるうちの家内を見なさい、聞きなさいと言われた。
毎日、此処何十年間、日参が続けられておるですけれども、とゆうて人さんのように5時のご祈念にお参りをするなんてんことはです、いろんな事情も許さんし、身体も許さんとと思うとったところが-- 皆さんがどうでも四時の御祈念を奉仕されるようになり、若先生が5時の御祈念を仕えられるようになり、もう何とはなしにじっとしてはおられんというのが、せめて一週間なっとんとゆうて5時の御祈念にお参りされる。ここまでどんなに急いでも40分かかる、一里あるから、女の足では小走りして来なきゃあ,40分では着かん。善導寺から、一生懸命やって歩いてくる 御陰で、一週間無事に、お参りし通す事が出来た。そして一週間お参りし、1週間通してから、こちらに感じる事頂く事、これはとても一週間と10日とか、日にちを切ってする事じゃない。これは私のこれが続く限り、朝参りは御陰頂かにゃあ。
最近では私が3時半にここに出てくる時はここに来ちゃる。しかも、その3時前からでてみえるしょう。ねっ、その此処まで歩いて来る道すがらの中にです、それこそ有り難うて有り難うてというものを感じていきよる。これで久保山の奥さんが真の信心になったとは言えない。けれども、真の信心とはそこから始められるんだという事が言える。金光様の御信心は朝参りからだと私自身もそうだった。合楽の信心はおそらく、次の時代、いつの時代まででもです。やはり、5時の御祈念であると思っておった。ところが、私の心の中にです、自己を肯定しないでの生き方とゆうようなものがいつも心の中にあった御陰でです、後で、4時の御祈念を奉仕させて頂くようになった。久保山さんじゃあないけれども、3時半から4時までの心の中の躍動というものは、恐らく誰も分かる者はなかろうと思うほどの喜びを感じます。
三代金光様の御内容を頂かなきゃあならん。三代金光様の御内容を頂かなきゃあならん。いかに、口をすゆうして言ってもです。三代金光様がなされておったせめて形の真似だけなっとせなければ頂けるはずがない。御内容とゆうことになったら、もう、限りが無いけれども、形なっと、ゆうなら私の心の中に感じるね。本当に、金光様も日々を祈る、こう言う有り難い思いでお過ごしになられたんであろう。いや、これのもっともっと倍にも3倍にもました思いでおありになったであろうと言う様なものを感じとる事が出来るのですからね。
とても、こげんな事情があるから、自分は許されないとか、自分はとても朝参りはでけんとか、そうゆう様な事では、決してその人は真の信心を目指しておるとは言えないとゆうこと、いつもそれはそれでいいのです。1週間に一遍でもかまわんです、けれどもです此れで済んだとは思わんというものが何時もなからにゃいかん。そして、そこに機会があったならば、チャンスがあったならば、本当の信心に向かわせて頂こうという願いを立てておかなければならんねえ。所謂、本当な事から、本当な事を目指して頂いてこそ私はそういう信者をもって真の信者ということになるのじゃなかろうか。いや、そういう信心をさして頂いてこそ、あれも御陰であった此れも御陰であったと分からしてもらい、今まで気付かなかったところのです、目にみえる御陰より、目にみえぬ御陰の方が多いと言仰る目にみえなかったところの御陰に感謝が出来るような私は、日々がすごされる。今まで、知らなかった事よりもです、知らなかった御陰にです目が覚めてくる。あれも御陰であったと、過去一切が生きてくる。
ある人が火事にあった。ある人は泥棒にあった、ある人はああゆう災難にあったけれども、火事に、泥棒に遭うたことも災難に遇った事もその総てが、御陰であったと、後で考えて気付かせて頂く御陰を頂かなきゃでけん。それを気付かして頂く様になると、本当の信者じゃと。しかも、現在思っておる処のこの難儀もです、あれも御陰であった、これも御陰であったというところに気付かしてもらうところに、その人は、まあ、ゆうなら安心立命の御陰を受けていっておる人と、言うことが出来る。あれも御陰これも御陰であった、御陰の中にある私、成る程、神徳を身に受ければ心配はないとゆう御陰に伴のうて来るのです。そこでお互いがです、本気で人の腹かくような事には、腹かかんで済むだけの、人が心配しておるけれども、自分には心配にならんだけの信心ぐらいは、早く頂かしてもらうところに願いを置き換えてです、信心を本気で進めて行かなければならない。
形の上においてはです、例えばある先生が言われた、ある先生の姿を堤さんが見られた。「ああ、これはたいした先生じゃなかばいの」と思われた。こげな先生のところじゃあ、信者は育つまいとそういう様に感じたとゆう様にね。これでは、やはり、本当の先生でもなければ、本当の信者でもないなあとこう思う。だから、お互い本当の信者を、目指してもろうて、信心の稽古をさしてもらわにゃいけん。そして、神様が本当に下さろうとしておる御陰に触れて行かなければいけん。そこんところの御陰を頂いてこそです、私は笠さんの言葉を借りるなら、この頃日本人が少のうなりましたもんの、と言われる少ないほうの信者に私は入ることが出来ると思うのです。この頃は、金光様の信者が少のうなりましたもんの、それは本当の信者が少なくなった。だから、本当の方とゆうのは本当に少ない。
けれども、合楽で御縁を頂いておる人はです、これほどにお互いが、日々御教導頂いているのであるから、ここを分かっていくなら、お互い本当の信者を目指すそっちの方へ、姿勢を向ける、そこから本当の信心が身についてくる本当の信者としての御比礼を自分の身の上にも現していくことが出来る、成る程金光様の御信者、これこそ金光様の御信心じゃろうと思われるようなね、信心を一つ、日々の御信心の中に頂いて行かなければならんと思うのです。
どうぞ